レゾナンスワークスができるまで Vol.5

第5期 独立(2005年6月〜2014年)

長いあいだ思っていたことがいよいよ実現できるときがきました。

三鷹にオープン

バイオレゾナンスに出会ってからというもの、それを使うことで身体を整える施術がしたいという思いがますます強くなっていきました。

そうなると、当時勤めていたお店のメニューと自分がやりたいと思っていることとのズレが段々と強くなり、そのことが精神的につらくなってきてしまいました。

「このような心境で続けるのは、自分にとってもお客さまにとっても良くない。」

と、お店の院長という立場を外してもらうのと同時に退職。

ただ整体の世界に初めて足を踏み入れた人たちのためには役立ちたいと思っていましたので、店舗での仕事と合わせて勤務していた学校の実技講師は続けて関わる事にしました。

(実技の講師としておよそ12年間関わりましたが、いまだに連絡をくれる生徒たちもいて、とてもありがたく思っています。
ひとに何かを教える、伝えることの楽しさを、彼ら、彼女らに教えてもらいました。)

講師を務める傍ら、しばらくしてからバイオレゾナンスを実践するための部屋探しを彼女とふたりで始めました。

2004年後半から2005年にかけてのことです。

「万が一失敗しても立ち直れるだけの体力と気力があるうちにやったほうがよい。」

という彼女からのアドバイスも大きかったです。

候補地として最初に考えたのが新宿〜吉祥寺の間でした。

この区間であれば、自宅から通いやすいというのと、馴染みのある土地柄でもあるという理由からです。

なかなか思うような場所に出会えない中、2005年4月上旬、ふたりで吉祥寺に出かけて行ったときのことです。

雨が降る中、たまたま飛び込んだ不動産屋さんに紹介してもらったのがひとつ隣駅の三鷹にある系列の支店でした。

「吉祥寺は部屋のオーナーさんが力を持っているからね。借りるのも大変。でも三鷹だとオーナーさんも優しい人が多いから、部屋が空いていれば借りやすいかも。」

三鷹にはあまり馴染みがありませんでしたが、この方の言葉を頼りに、その支店に電話を一本入れてもらって、その足で向かいました。

駅の北口を降りて紹介先の支店に向かう途中、きれいな桜並木を眺めながら、その後ろに見えるマンションを指差し

「こんなところで仕事が出来たらよいね!」

と彼女と会話。

その後訪ねた支店で紹介してもらったのが、まさにそのマンションの一部屋!

トントン拍子で話が進み、契約そしてサロンのオープンとなりました。

苦労の日々

ようやく自分の考えていた方法が実現できる場所が見つかりました。

部屋つくりにあたっては、せっかく、身も心もリラックス出来る場所に来られるのだから、生活感を感じないようしたいと思いました。

そのため、なるべく物を置かないで広々とした空間になるよう、椅子やテーブルを選んでいきました。

理想的な空間が出来上がりましたが、オープン当初はやはり苦労の連続。

そもそも、バイオレゾナンスという言葉は一般的なものではありません。(これは今に至っても同じ)

「波動」とか「振動」、「周波数」という言葉も「怪しい」「インチキ」「なにか売りつけられる」といったネガティブな表現が先に出てくるのが現状。

それでも地道に続けていく中、段々と興味を持たれる方々も出てきました。

長いこと氣功をやられている方や、その方々からの紹介などもあり、また遠く茨城や群馬、山梨からも来ていただけるようなこともありました。

ある時、鍼灸の学校で先生をやられている女性がバイオレゾナンス・メソッドを受けに来られたときのこと。

わたしとしては一体どんな反応、感想を持たれるのかと内心ヒヤヒヤしていましたが、終わった瞬間大きく伸びをしながら

「う〜ん、堪らん!腕のいいマッサージ師にやってもらったみたい!」

と言っていただき、ほっとしたものです。

お越しいただける方が増えるにつれて、色々な反応や言葉も増えていきました。

「風呂上がりみたい」とか「夢と現実の間にいる感じ」、「ここに泊まらせてくれ〜!」などなど。

借りた部屋からはきれいな富士山を眺めることができて、苦労する中、随分と励まされたものです。

昼間の富士山
夕景の富士山

電熱線がはいっているんでしょ?

バイオレゾナンス・メソッドのみを受けていただくとき、基本的には施術ベッドの上に仰向けで寝てもらうだけです。
必要がない限り、わたしが触れることもありません。

ベッドにはバイオレゾナンス・メソッドのプログラムをおこなう機械と身体を繋ぐためのレザーのシートが敷いてあります。

シートの上で横になってプログラムが始まり、しばらくすると大抵の方の身体がポカポカしてきます。

いつもは冷え性などで困っている方などもポカポカを体験しますので、

「このシートには電熱線が入っているんでしょ?」

と言われることも多々ありました。

シートには身体を暖めるようなものは何もありませんので、

「いえいえ、入っていないんですよ〜。」

とお伝えすると不思議そうな顔をされる方も。

そのときは

「もしそのようにポカポカとしてきたとしたら、ご自分の身体が活性化してきて自然と体温が上がってきたからですよ。」

とお伝えしています。

先生、声だしているでしょ!

身体の状況によっては、バイオレゾナンス・メソッドだけではなく、わたしが触れながら筋肉や骨格のバランスの調整が必要となります。

そのような施術をしていたある日のこと、ひとりの女性に「先生、声だしているでしょ!」と言われたことがありました。

勤めていた整体院での体験以来、バイオレゾナンスに加えて身体に触れて調整をおこなう際には、ずっと心のなかで声を出してハーモナイズする方法をやってきていました。

ただ、他の人に説明してもわからないだろうと思っていましたので、話題にしたことはありませんでした。

「どうして分かるんですか?」と尋ねたところ「だって聞こえるもん!」と。

「なるほど、わかる人には伝わるんだ。これはもっと真剣に声のコントロールをやらないとダメだ!」

そこで、以前から気になっていた「ホーメイ教室」に参加することを決めました。

★ホーメイとはトゥバ共和国でおこなわれている喉歌のことです。モンゴルのホーミーの方が聞き馴染みがあるかも知れません。

この教室はわたしがお世話になっている方が主催をしていて、かれこれもう1年以上も前から活動をされていました。

ホーメイの歌に含まれる倍音の響きはバイオレゾナンスに通じる部分がありましたので教室にはとても興味がありました。

ただ場所が熱海ということもあり、三鷹から片道およそ3時間。そのためなかなか踏み出せずにいたのです。

でも今回のことがありましたので、その方に連絡を取り参加する事にしました。

残念ながら教室の参加者も少なくなってきた時期でしたので、4〜5回参加しただけで終わってしまいましたが、第一人者である巻上公一さんから直接教わることが出来たのは貴重な体験でした。

クリスタルボウル奏者 牧野持侑(まきのじゅん)さんとの出会い

クリスタルボウル奏者の牧野さんと実際にお会いしたのはホーメイ教室に通うようになる数年前の2009年の5月か6月の頃だったと思います。

大田区池上にある實相寺さんで開催されたイベントでのことでした。

午前中は札幌にある自然食のお店「まほろば」さんの宮下社長ご夫妻のセミナー、午後は牧野さんのクリスタルボウルのライブ、その後は参加者の方々との懇親会の3部構成。

セミナーでは身体の反応で物事を選択していく「ゼロワンテスト」のお話。

ライブでは50個近くのクリスタルボウルが並べられた会場での贅沢な演奏。

懇親会では代々木上原の「Kanbutsu Cafe」さんの作られたマクロビ系の食事を食べながら色々な方との会話を楽しみました。(検索したらお店は閉店されていました)

家に帰ってから、そういえばと思って「クリスタルボウル・ヒーリング」の本を見直してみたら、なんと訳者が牧野さんでした。

「そうかぁ、6年前にもう出会っていたんだなぁ!」と感慨深いものがありました。

まさか、こういった形で改めてお会いするとは不思議なものです。

同時に、2003年の時点で2つの選択肢があったうち、バイオレゾナンスを選んだわたしに、いま一度クリスタルボウルにも取り組む時期なのではないかというメッセージにも思えました。

(しばらくしてから、牧野さんに色々と相談に乗っていただき、2013年、選んでいただいた5個のクリスタルボウルが三鷹にやってきます。これで2002年に購入したものと合わせて6個になりました。)

その後はコンサートのお手伝いをさせていただくことにもなりました。

大田区池上の實相寺、港区芝の増上寺、練馬区の観蔵院(曼荼羅美術館があります)、新宿区のルーテル市ヶ谷ホールなどなど。

座席の準備をしたり、受付をしたり、コンサートのオープニングとエンディングでオリジナルのお香を焚いたりしました。(オリジナルのお香に関してはまた別途お話をしたいと思います。)

くりすたり庵のホームページ

コンサートのお手伝いは年に数回、2014年にわたしたちが札幌に引っ越すまで続きました。

【第4期 バイオレゾナンス・メソッドとの出会い(2003年4月〜2005年)】はこちらから

【「レゾナンスワークスができるまで」を振り返って】につづきます。